ヒストリー
豆皿の原点は「手塩皿」にあり
歴史の偶然から生まれた日本独自の皿
豆皿の歴史をひも解くと、1640年代に日本で生まれた「手塩皿」に行き着きます。日本では、元々、中国から磁器を輸入して使用していました。1616年に日本で磁器を焼き始めてからも、中国磁器の方が品質に優れていたため、日本の磁器はあまり人気がありませんでした。
ところが、1644年に中国王朝が明から清へと代わる際に、中国国内で内乱が勃発。中国の窯業地域は大打撃を受け、中国は磁器の輸出ができなくなってしまいます。そこで中国に代わって、世界の磁器生産の中心となったのが有田でした。この歴史的変動により、有田は大産地へと一気に発展を遂げます。手塩皿が生まれたきっかけも、ここにありました。
日本の商人は、日本の食生活に合った食器を産地へ直接発注するようになりました。それまで中国磁器に対してできなかったサイズや形、絵柄の指示ができるようになったからです。この頃から日本独自の食器が生まれ、流行し始めます。その代表が手塩皿や長皿でした。
古来、日本人の食事の形式はこうでした。膳の中心に飯碗、汁椀、主菜を盛る五寸皿を並べ、その向こうに副菜を盛る猪口(向付)を置き、手前に箸、箸の脇に手塩皿を置きました。つまり手塩皿とは、手前に置く塩皿のこと。塩を盛るだけでなく、醤油、酢などを注ぐこともありました。要するに、調味料入れだったのです。寸法は皿の中で最も小さい三寸(約10センチ)前後。
ただし手塩皿が誕生した当時、日本でこれを使うのは上流階級に限られていました。手塩皿が庶民に伝わるのは、江戸中期以降。武家社会から町人社会へと時代が変わり、経済力をつけた中産階級の人々が、上流階級の暮らしを真似て磁器を使うようになりました。さらに江戸後期になると、有田以外の窯業地域でも磁器を量産するようになり、庶民の誰もが磁器を使うまでに至りました。
江戸後期は、手塩皿のデザインに変化が見られた時代でもあります。清朝の影響を受けて、コウモリが吉祥文様として流行したほか、麒麟や唐獅子などの仮想動物もよく描かれるようになりました。
時が現代へと近づくと、日本人の食事の形式が変わり、食文化が多様になっていきます。具体的には1人が用いる食器の数が減り、1枚で多用途に使える食器が重宝されるようになりました。そのため、手塩皿の使い方にも変化が表れます。手塩皿に副菜やお菓子を盛るなど、もっと楽しい使い方が求められるようになりました。名称も変化し、手塩皿は「醤油皿」や「豆皿」などと呼ばれるように。しかし使い方や呼び名が変わろうとも、日本人が小さな皿を愛でる気持ちは、永遠に変わらないでしょう。